■■■文書集■■■
 『ALL ABOUT TEA』に関連する論説などを掲載していきます。

□ オールアバウトティーとユーカース  小泊重洋氏(茶の湯文化学会副会長) 

掲載04/11/16


 

オールアバウトティーとユーカース

茶の湯文化学会副会長 小泊重洋

 ユーカース(W.H.Ukers:1873-1945)が書いたオールアバウトティーは茶についての世界的な名著として知られる。しかし、英語で書かれていることもあって、わが国では、意外と知られていない。ユーカースは、本書執筆の25年前に東方の茶産国を訪問以来、茶に関する資料の収集を開始し、以後各国の図書館、博物館をめぐり、また、各茶生産国へも1年にわたる調査旅行を敢行し、これらの収集資料を12年の歳月をかけて整理し、1935年に“ALL ABOUT TEA”として刊行した。本書は2巻、54章、1,152ページ、60万字からなり、世界の主要茶類一覧表、500件を記述した歴史年表、425語を説明した茶辞典、2000冊に及ぶ茶の書籍目録、一万項目の索引などを含むかつて類例を見ない茶全般について記述した大著である。全ての記載は原典にあたり、不得手な科学、技術などの分野は専門家に依頼するなど、内容的にも極めて確度の高いものである。

1 「オールアバウトティー」の構成と概略
 
   大きくは歴史、技術、科学、商業、社会、芸術の六部に分けられている。

「歴史」
  第1章では紀元前2737年の伝説に現れる茶の起源や紀元前550年孔子の著作に見られる記述、さらに最も信ずべき記録である紀元350年の記録などについて書かれている。茶の原産地は東南アジアであり、中国西南部、東北インド、ビルマ、シャム、インドシナを含む地域とし、茶の栽培、喫茶習慣は僧侶により広く中国、日本へと伝えられた。第2章には『茶経』の英文による最初のダイジェストが掲載されている。世界への茶の伝播は、アラブへは850年、ベネチアへ1559年、イギリスへ1598年、ポルトガルへは1600年にそれぞれもたらされ、オランダが最初にヨーロッパに茶を持ち込んだのが1610年。ロシアに達したのは1618年、パリへは1648年、イングランドとアメリカへはおよそ1650年ごろなど、以上は第3章に記載されている。第4章は、T.Garrawayと彼の有名なロンドンのコーヒーハウスの話。第5章は、茶税との闘いとアメリカへの移入。第6章は東インド会社の話。第7章はティクリッパーの競争。以降11章まで、オランダ領下におけるジャワ、スマトラの驚異的な茶業の発展、英国領下におけるインド、セイロンの茶、及びその他の国々の茶の歴史が詳細に記述されている。北アメリカにおける茶生産の歴史と黒人による茶摘風景の写真は興味深い。

「技術」
 
13章では各種茶の特徴や貿易上の価値、茶の審査方法や水の重要性が述べられ、さらに各産地別に茶の特徴を細かに示した一覧表が添えられている。日本については、積出港として清水、横浜、神戸、長崎。主要産地として静岡、山城、近江、鹿児島、三重、埼玉、岐阜。茶種は玉露、碾茶、煎茶、番茶、ほうじ茶の説明がある。以後の8章では、中国、日本、台湾、ジャワ、スマトラ、インド、セイロン及びその他の国の茶の栽培と製造について詳しく記述されている。日本に関しては、18ページが費やされ、気象および土壌条件、栽培、摘採、製造、仕上げ、生産コスト、さらには試験研究機関の予算内容まで記録してある。22章では初期の中国における手による製茶から最近の機械化された茶工場までの変遷が詳述されている。

「科学」
  23章は、よく引用される茶の語源。陸路主にアジアに広まった広東読みの「chah」とヨーロッパに入ったアモイの方言「tay」について。茶の植物学では、1753年にリンネによってどのように植物分類がなされてThea sinensisになり、その後Camelliaに変わって今日にいたっているかが述べられている。茶の化学、茶の薬理学については、インド・トクライのインド茶業協会の化学者が担当している。上巻最後の章には、茶と健康についての新聞記事や報文の要旨が55題、コンパクトにまとめられている。

下巻は、商業、社会、芸術の面からの記載である。

「商業」
 
第1章から第5章までは、生産国から消費国への茶の流れ。中国、オランダ、英国、日本、台湾、その他の国々における茶の貿易の歴史。日本については18ページが費やされ、概説にはじまり、初期の横浜貿易、茶輸出港としての神戸港、直接貿易、輸出の振興、産業の組織化、茶貿易の静岡への移行、1885年以降の年代別貿易の変遷、日本の著名な茶商会、日本の茶業組合など。さらにアメリカにおける茶貿易については48ページを割いて詳述している。16章は780年(陸羽の『茶経』)から現在までの茶の広告の歴史が多くの写真とともに紹介され、日本がどのように世界戦略を練ったかも記されていて興味深い。

「社会」

  茶は「流行と優雅の侍女」と言われる。社会生活における茶の歴史について、初期の中国、日本、オランダ、英国、アメリカではどのようにお茶が飲まれていたか。日本の茶道については一章を割いて詳細に記されている。21章では、18世紀ロンドンのティーガーデンでの楽しみ。22章は初期の飲茶習俗、チベットでの飲茶、日本のお茶つぼ道中、アフタヌーンティーの始まり等。さらに現在の世界の喫茶習俗、喫茶道具の変遷、湯沸しからティーバッグまで。さらに科学的な茶の入れ方や買い方の解説もある。
「芸術」:茶に関する絵画、彫刻、音楽(「茶摘」が楽譜入りで紹介されている)、著名な茶器の紹介。最後の章は、文学と茶。親日家であったユーカースらしい一文が日本語で紹介されている。「お茶という字を解剖すれば日米取持つ味な縁」、どういうことかお分かりだろうか?
なお、本書の構成や執筆方法は、彼の前著である「オールアバウトコーヒー」とまったく同じである。また、この名著は、世界各国で翻訳出版されているが、中国では解放戦争のさなかに呉覚農を中心に翻訳作業が行われ、1949年に1冊本で出版されている。英文では中国の地名や人名を判読するのが困難であるが、この中国版を参照すると便利である。


2 W.H.ユーカースについて

 ユーカースは1873年フィラデルフィアに生まれ、ニューヨークタイムズの記者などを経て「ティーアンドコーヒートレードジャーナル」の主筆を務め、この間、17年を費やして860ページの膨大な「オールアバウトコーヒー」を著す。その他、ニュースタンダード大辞典の編纂にも携わり、さらにニューヨーク大学で実業新聞学講座を開講した。その他、グローサー及び同業雑誌組合の会長を務めるなどしている。このユーカースが、日本を訪れていることは案外知られていない。明治維新後、茶は重要な輸出産品であったが、主な輸出先であるアメリカではコーヒーに押され大変厳しい状況にあった。なんとかそれを打開しようと、当時、ティーアンドコーヒージャーナル誌の主筆であったユーカースの力添えに期待がかけられた。我が国の茶業界は2500ドルの準備金をもって彼を招聘した。ユーカースもまた「オールアバウトティー」執筆のため日本茶について実地に視察し研究する目的があったためこれに応じた。大正13年(1924年)5月5日横浜に到着後、埼玉、静岡、愛知、三重、京都、奈良をまわり、24日に神戸港から台湾に向けて出帆するまで、まさに下にもおかぬもてなしをしている。この様子は当時の雑誌「茶業界」に逐一詳述されている。すっかり親日家になったユーカースは翌年、夫人を伴い再び来日し、自分は松を好むので松之助、夫人は名山に因んで富士子と呼んでくれなどと上機嫌だったそうである。このときの講演で、彼は広告宣伝の重要性を力説したが、これをうけて昭和初年から米国での日本茶一大キャンペーンが始まる。なお、ユーカースは、「オールアバウトコーヒー」の場合にそうであったが、資料収集のため各国に連絡員を置いている。日本の茶についての驚くべき詳細な記述からして当然日本にも同様の人物を配置したことが考えられる。上巻に記された謝辞の中に二名の日本人の名前が出てくる。掛川の堀有三氏と静岡の石井晟一氏である。掘有三氏の消息はまったく不明であるが、石井晟一氏の子孫はご健在の様子なので、ユーカースに関する貴重な資料が存在するかもしれない。

「オールアバウトティー」は、まさにその名のように茶の全てを記載した極めて貴重でかつ興味深い書である。また、珍しい絵や写真が数多く挿入され、それだけでも一見の価値がある。「オールアバウトコーヒー」は、すでに日本語訳が出版されているが、残念ながら「オールアバウトティー」については未刊である。時代を超えた書として是非、日本語訳が刊行されることを期待する。

(『邦訳 ALL ABOUT TEA 第2巻19章』の序文として、寄稿していただきました。掲載承認済み)

   
   


 



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送